だと言うことをご存知でしょうか。しかも、Mitsuさんと同じ福島県出身の方なのです。
今でも3000人の地元の人が生活をしているこの村には、年間200万人もの観光客が世界各国から集まってくる今や一大観光スポット。
1911年にアメリカの探検家ハイラム・ビンガムによって発見された後、そこで見つかった骨董品などはアメリカにて保管され分析が行なわれていました。
ちょうどその頃、日本から南米へ契約移民をする日本人が多く、仕事を求めて南米の地へ渡る人が大勢いました。その中の1人、野内与吉さんは1917年に単身でペルーへ渡ることになります。当時野内さんは22歳。裕福な家庭に生まれるも、ゴム産業が盛んだった南米での成功を目標に、農園で働き始めました。しかし契約内容と実地の違いから1年間で辞めた野内さんは、近隣国を渡り歩き、1923年に再度ペルーに戻ってきたのです。
野内さんは、それからペルー国鉄に勤務し、1929年にはクスコ〜マチュピチュ区間の線路を完成させるという任務に携わることになったのです。
山奥にあるマチュピチュは、水の宝庫。私たちがここに辿り着くまでも、ガタガタの山道には水が溢れてました。
そしてマチュピチュ村に着いてから驚いたのが、村は大きな川が流れており、日本の温泉街みたいな風景じゃありませんか。川沿いに立ち並ぶ宿やレストランが黒川温泉に似てるよ〜!という情報を得ていた通り、そこは日本を思い出すような場所でした。
そして、流れる水の勢いが凄まじいのなんの。雨季ともあって、ここ最近はたくさんの雨が降っていたということもありますが、水に恵まれた場所なんだなぁ、というのがすぐ分かりました。
そんな恵まれた水を活かそうと、野内さんは、何もなかったマチュピチュ村に川から水を引き、農作物が作れるよう畑を作り、水力発電所を考え、電気を通すことに成功しました。
この水力発電所は、私たちが乗り合いバスを降りた場所でもあり、スタンドバイミーコースの入り口ともなっている場所です。
また野内さんは、村を拡大する為に木を伐採していると、なんと村から温泉が湧いたのです。なので今でもマチュピチュ村には、水着を着て入れる温泉があります。
この先に温泉があります。
その温泉が村に湧き出ることから、マチュピチュ村は、別名アグアスカリエンテス(スペイン語で熱いお湯という意味)と呼ばれています。
ちなみに、私たちはこれまで各国の安宿に泊まってきて、シャワーの調子が悪くて水しか出ないこともありました。そうゆう時は、いつも宿の人に「ノー!アグア カリエンテ!!(お湯が出ないよ!)」と言って見てもらっていました。こんな山奥で熱いお湯が出るなんて、なんて最高な場所なのでしょう。
色んな国を渡り歩いていた野内さんは、語学も堪能で現地のガイドを務めたり、野内さんは「ホテル・ノウチ」を建設し、その一部を村に無償で提供。そこに郵便局や交番、裁判所などが入り、とても重要な役割を果たすお役所たちが、ホテル・ノウチに集まっていました。
村人からもとても信頼の厚かった野内さん。1941年にマチュピチュは正式に「村」と認められ、マチュピチュ村の村長として任命されたのです。
現在、マチュピチュ村は、野内さんの出身である福島県と姉妹都市となっています。
マチュピチュにて、私たちが日本人と分かると、話をしてくる外国人がいました。1人は地元のペルー人、もう2人は観光客。口を揃えて話をしてきたのは、「atomic power station (原子力発電所)」のこと。外国人からみた日本は、まだまだ震災のイメージも大きく、津波被害よりも、原子力発電での被害の方にとても興味をもっているようでした。そして、出逢った人々に日本に行ったことがある?と聞くと、「行ってみたい国だけど、物価が高いから行けない…」という人が多数。発展途上国の多い中南米は、日本という国は遠い憧れの存在。私たちが海外旅行にいくように、南米の人たちが、行ってみたいという日本に来日できる日がくるのはいつになるのでしょうか。
そんなマチュピチュ村に一生を捧げ、多大なる貢献をした野内さん。今はもう亡くなられていますが、いまのマチュピチュ村にこれだけ多くの観光客が集まることができているのも、野内さんなしには語れないであろう重要な人物です。素晴らしいなぁ。
0 件のコメント :
コメントを投稿