翌日。
八郎さんに車で、パラグアイで唯一の移住史料館へ案内してもらいました。
「移住資料館」ではなく、「移住史料館」と書かれた看板。
ここは移民の歴史を知ってもらいたい場所という思いから、八郎さん直筆で看板を書かれたそうです。
一文字一文字、心込められた綺麗な文字。
当時のパラグアイも戦争で多くのパラグアイ人兵士たちが亡くなり、戦前から約半数の人口になったのだそう。その頃から、日本から多くの移民者を受け入れるようになったそうです。
現在、ここイグアス移住地には約250世帯の家族700人の日系人が住んでいるとのこと。
八郎さんたち家族は、54年前の5月に日本から船で1ヶ月半かけて南米に渡ってこられました。
もともとご実家は、鹿児島で農業をされていたそうで、南米に来たら、好きなだけ農業ができる!!という野望を持って海を渡られてきたそうです。
その時のパスポートがこちら。
今と違って、1人ひとつのパスポートでは無く、家族写真で家族単位でのパスポートだったんですって!
渡航理由が「農業に従事の為」と記載されていました。
当時、南米=海外=華やかなイメージを抱いてきた日本人たち。
南米パラグアイに渡ってきて、整った環境ですぐに農業を始めれると思いきや、目の前の光景は、あたり一面原生林。ジャングルだったと言います。
愕然とした日本人たち。
しかし、南米に来たからには日本に帰るチケット代もあるわけではない為、生活していく為に開拓していかなければならない状況だったそうです。
密林を伐採し、農地にすることから始まった移住地。
幸いにもパラグアイの土は赤土。
赤土には、豊富な栄養がたっぷりとあるそうで、農業をするには最適な土なんだとか。なんでも育ってくれるそうです。
これらの道具も、すべて日本から持ってきたものなんだそう。
ノコギリが大きくてびっくり。
大変なご苦労を乗り越えて、日本人がパラグアイの地でイチから始めた農業こそが、現在世界で第4位までに成長した大豆の生産なのです。
今となっては、日本人が経営する農場で多くの地元パラグアイ人を雇用するほどまでの大切な産業にまで拡大。
3.11の東日本大震災の時も、パラグアイからは豆腐の原料となる大量の大豆を日本へ支援されました。
遠いようで、固く結ばれている絆がそこにはあるのです。
努力が実り、日本人の働きが認められるようになり、今ではパラグアイと日本はとても良い関係性だといいます。
この五右衛門風呂も日本から持ってきたものなんですって。
こんな大きなお風呂、わざわざ持って行きたかったほど、当時の日本人にとっては大切なものだったのです。
使い慣れた日本から持ち込んだ道具たちは、現役を終えて捨てられようとしていました。
八郎さんはその道具たちを集め、移民当時のことを伝えていく為の史料館として建てられたのです。
今後イグアスでも高齢が進み、日本から渡ってきた1世が減少、そのお子さんである2世、孫の3世や、ここを訪れる旅行者に、実際にあったイグアス移住地の日本人としての歴史を伝えていかなければならないと話す八郎さん。
私たち2人の為に、無料で3時間じっくりとご説明して下さいました。
既に何千回ものご説明をされてきている八郎さんは、日本での講演もされているそうです。
のどかなイグアス移住地。
今では八郎さんにもお孫さんがいらっしゃいます。日系3世です。
移民当時は出産した国パラグアイがその子の国籍となっていたので、日本人の親からパラグアイ国籍の子どもというのが普通でした。
しかし現在は日本国籍を持つ親がパラグアイで出産した場合、その子は二十歳まで日本国籍とその出生国パラグアイ国籍を持つことができる二重国籍制度ができたのです。それは二十歳になった時、好きな方を選べるというもの。
どんなに両親が日本人であっても、生まれ育った国が日本でなければ、本人は出生国パラグアイを選ぶことが少なくはないのだそう。
こうして日本国籍を持つ日系人がどんどん減少していっている傾向にあるのです。
何もない場所から血も滲むようなご苦労を乗り越え、日本人同士で力を合わせて創り出したコミュニティ。
これだけ大きくなった産業を築き上げてこられた移民の方々は、力強く、本当に素晴らしいなと思いました。
生の実体験のお話を聴くことができ、貴重な時間でした。
ペンション園田には、こんな可愛らしい秋田犬のわんちゃんたち3匹が待ってますよ〜!
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