東京は銀座のオフィス街。
私はちょうど、全国から集まるプレゼンテーションに参加しており、まさにその時に地震が襲って来たのです。
プレゼンテーションが行われていたのは、ビルの6階。いきなり襲ってきた激しい揺れはおさまるどころか、徐々に激しく揺れ動き、建物が崩れ落ちるんじゃ無いかと思うほどの恐怖でした。
直ぐに外へ避難したものの、周りの高層ビルはまだ、ぐわんぐわんと揺れていて、夢でもみているのかと錯覚するほど、今まで見たこともない光景でした。
もちろんプレゼンテーションは中断。皆一斉に避難所に指定されていた会社近くの公園に移動し、そこでMitsuさんの姿を発見してホッと安心したのを覚えています。
次第に「震源地が東北の方だ」、とか「今さっきのこの付近の震度は5だ」とか、少しずつ情報が回ってくるようになり、東北=Mitsuさんのご家族は大丈夫なのかとMitsuさん経由で直ぐに電話をしてみるものの、全くの音信普通。呼び出し音すらならず、おそらく電話回線がパンク状態だったのでしょう。
東京都心部を張り巡らすバスや電車や地下鉄もストップ。激しい渋滞と騒ついた銀座で数時間待機しました。
帰宅できる人は帰宅し、帰れない人は建物を開放していた会社に留まるよう指示が出たので、私とMitsuさんは当時暮らしていた11km先の三軒茶屋まで歩いて帰宅することにしました。
歩くといっても、もちろん銀座から三軒茶屋まで歩くこと自体初めてでしたし、何時に着くか分からなかったけど、とにかく家に辿り着いて、いつでも福島の家族と連絡が取れるような状況にしておきたいと思ったのです。
銀座から新橋の方に向かって歩き、渋谷を通って三軒茶屋まで歩きました。
パニック状態になった東京の街は、私たちのように歩いて帰宅している人々の列が、蟻んこのようにずっと先まで続いていました。
そして私たちが歩いている途中に目にしたのは、どこかの電気屋さんのテレビに映っていた忘れもしない衝撃映像。それはまさに、辺り一面津波が押し寄せて家や車が流されている映像でした。
初めてそこで今回の震災の凄まじさと、日本がとんでもないことになっていることを改めて知らされたのです。
帰路につく途中、福島のご家族の安否だけが本当に心配でした。どうが無事であって欲しい、早く連絡が取れますように…と。
当時LINEもそこまで主流ではなかったので、なかなか連絡が取りづらい環境に不安もつのるばかりでした。
4時間掛かって三軒茶屋の家に辿り着き、幸いにも我が家はテレビが倒れていたぐらいで大きな損傷はなかったものの、近くの大型スーパー、コンビニの食材売り場やお水は、ほぼ完売状況。
たまたま買っておいた食材などで暫く食べ繋ぎました。
度々訪れる余震と地震速報で眠れぬ夜が続き、翌朝になっても一向に携帯電話の回線は復活なし。
もしかしたら公衆電話からだったら掛かるかも?と思い立って、試しに近所の公衆電話からMitsuさんのご実家に電話を掛けてみたら、ようやく連絡が取れたのです!!
みなさんご無事で本当に良かった…
後から知ったのですが、津波も実家の直ぐ近くまで押し寄せてきていて、同じ町内の海辺付近の住宅街は、跡形もなく家が流されており土台だけが残っていました…
多くの被害が発生した3.11の東日本大震災。
この震災で1万6000人近くの尊い命が奪われました。今でも約2500人もの方々が行方不明とのこと。
そして6年経った現在、未だに3万4千人の方々がプレハブで避難生活を送られているのです。
決して忘れてはならない、日本の大きな傷跡。まだまだその傷が完全に良くなるまでは時間が掛かるかもしれませんが、少しずつ前に進んでいることは間違いありません。
震災が起きて以降、海外の人々からも名を馳せた日本。旅をしていると、今でも東日本大震災のことを心配してくださっている外国人と沢山出会います。
日本で暮らす人々が災害に負けず、そして日本を訪れる海外の人々が安心して旅行に来てもらえるような環境になることを願っています。
Yoko.
0 件のコメント :
コメントを投稿