私たちがやってきた弓場農場は、今から80年前に今は亡き弓場勇さん率いる当時日本から移民をしてきた7名の仲間によって、原生林を切り開くところから始まった共同生活の場です。
発足当初から私たちのような旅人を受け入れており、弓場農場の人たちと一緒に農作業をお手伝いする代わりに、3食の食事や寝床を無償提供してくださるということを行っているのです。
ここに暮らしているのは、全員日本人もしくは日系人で、弓場での会話は日本語。
ポルトガル語が公用語のブラジルにいることをすっかり忘れてしまうほど、ブラジルの中の日本なのです。
現在、戦前日本から移民してきた1世や、その子供の2世、さらには孫の3世まで、合わせて26家族56名がこの弓場農場で共同生活をしており、更にいつも旅行者が引っ切り無しに訪れて来るのだそう。旅行者合わせると毎日大体60名〜65名の共同生活なんですって!!
最盛期には300名もの家族たちが、ここ弓場農場に住んでいたんだとか。
現在は、日本と同じようにここで生まれ育った若者たちが、サンパウロなどの都会へ出て戻ってこないという、弓場農場でも人口減少が大きな課題となっているそうです。
弓場農場内には、各家庭に1件ずつ家があるのですが、食事をする時も大きな食堂で一斉にいただくし、お風呂も共同大浴場があるので、其々の家には自分たちが寛ぐ部屋や寝室があるのみなんですって。トイレも基本的には共同。最近建てられた家には、家にトイレが付いていることもあるのだそう。
中には私たちのような長期旅行者が、この地を気に入り日本から移住しているご夫婦や、ここで生まれ育った日系人と結婚してそのまま移住されている旅行者もいらっしゃいます。
現在弓場農場で暮らす、戦前の南米移民が始まった時に移住してきた1世の方は僅か3名。
世代交代をしながら弓場農場での歴史を語り継がれ、守り続けているのです。
弓場農場では、主にオクラやカボチャ、グァバなどを近くのスーパーに卸したり、採れた野菜や果物の加工品(例えばジャムや福神漬け、しば漬け、ごまラー油、柚子胡椒など)を収入源としています。
自分たちで育てた野菜や穀物、家畜を食料とし、自給自足率なんと約7割なんですって。
食材の他に、食器や洋服を洗う石鹸や洗剤も手作りだったり、
お皿を洗うスポンジはヘチマを乾燥させたもの、ホウキだって手作りです。
お風呂のお湯も毎日薪で沸かすという、現在の日本よりも日本らしさが色濃く残っていて、とても刺激をもらいました。
欲しいものがある時や、旅行へ行く時は、弓場のお財布を管理している人にその都度もらって生活をしているのだそう。
現在の日本だとなかなか考えにくいような生活ですが、弓場の皆さんはいつも笑顔で、支え合って生活をしているのです。
また広い敷地内には、図書館や資料館もあります。
そして資料館には、弓場農場の歴史について触れることができます。
〜弓場農場での1日の流れ〜
6時〜
角笛で起床、朝食
7時〜
各自作業開始
《男性は農作業、女性はコジーニャ(ポルトガル語で台所の意味)
11時〜
昼食
13時半〜だいたい16時ごろ
各自作業再開
18時15分〜
夕食
20時半〜
平日はバレエ、合唱のレッスン
農場でバレエ?合唱?と思われるかもしれませんが、創設者である弓場勇さんは、《芸術すること》《祈ること》《士と共にあること》を理想として弓場農場を創られてこられたのだそう。
『行け!自由の天地ブラジルへ』と書いてあるたった一枚のポスターを見て、自分はブラジルに渡って自由に天地を創造するんだ!という強い想いを抱き、ひたすら夢に向かって貫き続けられてこられたそうです。
当時から多くの文化活動を大切にしながら、弓場では年末年始の行事を始め、国内外で講演を行うほど本格的なのです。
私も滞在中、バレエや合唱のレッスンに参加させていただいたのですが、皆のレベルの高さにびっくりしました。
これは、資料館に置いてあった弓場の方々が講演をした時の写真。
他にも陶芸をする方や、
カツエさんは、弓場のことを伝えるために、絵本を書かれています。
完成したら読みたいなあ。
皆、農作業している時の姿とはガラリと印象も変わり、芸術家の顔を持っており、とても生き生きした表情が素敵でした。
次回、実際に私たちがどんなことをお手伝いさせてもらっているかについてご紹介したいと思います。
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